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伊折地区に90世帯が暮らしていた頃の話
上市町在住のデザイナー伊東です。
伊折の起源は近江からの木地師(木でおわんなどを作る職人)の一団が住み着いたのが始まりと言われているそうです。
上市町でも最も山の深いところに位置しながら、一時は90世帯、450人が暮らしていました。
前の記事でもご紹介しましたが、約20年前に伊折の出身者よって編さんされた「伊折の歴史と文化」この冊子が非常に面白く、普段本を読みきれない私があっという間に読了しました。
著者の長澤信次さんが戦前から戦後にかけての幼少期の記憶や当時の古老から伝え聞いた話などをまとめたものです。
これを読みながら感じたのは、今の私たちの暮らしとは大きく異なる世界観の中での暮らしであるということ。
今はインフラや物流が整っていて、どこに住んでいても同じものを食べ、同じ情報を同じタイミングで得られ、同じようなライフスタイルで生活することができるかもしれません。
しかし、昔の山村と市街地とでは全く別のライフスタイルや文化風習が確立されていたことが想像できます。
12月から3月までは雪に閉ざされ、そのために蓄えた食糧を食べ、今の感覚で考えるといささかまじないめいた療養法や売薬の薬などが医者がわり。
風呂を沸かせば隣近所を呼び、作った料理や足りない調味料を分け合い、隠し事もなく(できない?)、村全体が家族のようにひとつになって暮らしていく。
まさにひとつの共同体。
離村が相次いだ理由は色々とあったようですが、子どもにしっかりとした教育を受けさせたいという親心が大きかったようです。
伊折地区の子ども達は小学校4年生までは村内の分教場で1人の先生から全ての教科を学び、その後は4キロ先の早月小学校(その後白萩東部小学校となり、廃校後は剱少年自然の家となり、現在は取り壊されています)へ通っていたそうです。
道中の伊折橋は当時はなんと丸太の一本橋だったそう。(現在はトラックも通れるように整備され、剱岳の撮影の定番スポットになっています。)
5年生以上でないと体力的に通えないだろうということで分教場での学習となっていたということですが、大人でも毎日通うのは辛い通学路です。
その問題とは別に、 本校へ通う時には、勉強についていけるかどうか子ども達は大変不安になったそうです。
教育に対する劣等感を少なからず持っていたのかもしれません。
それが離村が相次いだひとつの要因であるとこの冊子の中では書かれています。
とは言っても、伊折地区出身の多くの方が建設関係、教育、医療、商工業などの世界で大きな成功を収められています。
その後の努力などの要因も大きいので一概には言えませんが、教育の水準は決して低くなかったと言って良いのではないでしょうか。
村の暮らしは助け合いの暮らし。
苦しいこともあれば楽しい催しも度々村内で行われていたようです。
日常的にも近所が集まっての茶飲み会が開かれるなど、家族だけでなくいつも色んな人が囲炉裏端に集っていたようです。
多くの住民が村を離れ、廃村状態になっていた頃、年配の元住民の方が「今の経済状態のままで昔の生活に戻れるとしたら、天国にいるようなものだ」と語っておられる言葉からも、この村の暮らしの温かさや豊かさを感じ取ることができます。
しかしこの冊子は面白い。
当時の記憶を振り返って記されているので暮らしぶりはリアルに伝わってきますし、伊折の方言まで収録されています。
時が経つにつれ、このような書物はどんどん価値を増していくことでしょう。